慰霊塔記(前室背面)
太平洋戦全国戦災都市空爆死歿者慰霊塔記
(前室の背面)には下記の慰霊塔記が刻んである。
太平洋戦争の惨烈なる兵火は昭和20年8月15日わが日本の無条件降伏によって終熄した。その後約7年の間わが国は連合国軍の占領管理のもとに置かれたが昭和27年4月28日サンフランシスコ平和条約の発効によって漸く国家主権を回復することができた。
これに伴い政府はこの戦争の犠牲となって死歿した軍人軍属に対する敬弔とその遺族に対する慰藉の方途は一応これを定めたが身に何等の防備なくして無慙なる空爆のなかに敢えなく非業の死を遂げた幾多の無辜の市民については全くこれを顧みるところがなかった。ここにおいてあの曠古未曾有の戦災を蒙り廃墟と化した全国113の都市を糾合して結成された全国戦災都市連盟は昭和22年1月その結成以来主力を戦災復興に尽くして来たがたヾ形の上の復興のみに終始することなく政府の施策にもれた戦災都市空爆死歿者の慰霊をも併せ行うべく昭和27年5月17日福井市における第10回定期総会の議に諮り太平洋戦全国戦災都市空爆死歿者慰霊塔を建立することを決議しその設置場所を全国戦災都市連盟発祥の地であり、その本部の所在地たる姫路市とすることに満場一致で決定した。
かくしてこの企てがひとたび世に発表されるや果然全国民の間に澎湃として共感を呼びおこし各都市をはじめとして小学校の児童、中学校および高等学校の生徒、婦人団体のほかあらゆる階層、あらゆる職域から翁然として多額の浄財が寄せられた。従ってこの慰霊塔はこれら全国民敬弔哀悼の至情の結晶である。
これが持つ意義は太平洋戦争における不幸なる空爆犠牲者の霊が暖かい同胞愛に抱かれて眠る安息の場であり戦争の悲惨なる真相を知らしめる記念塔であり更に今一つには戦争というものは生ける者も死せる者もこの悲劇に見舞われ国破れて山河ありとは雖もかくも荒廃を来しその復興はかくも難行苦行をもたらすものであることを後世に伝え洋の東西を問わず、生きとし生けるもの強く相携えて戦争防止への最善を致すべきことを訓えるものであってこの慰霊塔に詣ずる者の声は世界の隅々へまで平和の祈りの声として響き伝わることを念じて建立されたものである。
昭和31年